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2023.06.23
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水都大阪の変遷

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  • Shinobu Nakai
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戦国・安土桃山時代
豊臣秀吉がつくった水の都

  • 大阪は水を起源とするまちでもある。豊臣秀吉が大坂城の城下町につくった堀川が縦横無尽に広がり、船場を中心に「水の都」と呼ばれるまちの原型になった。秀吉没後も、この堀川が物流の動脈となって、大阪は「天下の台所」と称されるように。

江戸時代~明治
水の都に風情をもたらした川船

  • 江戸期になると、水都大阪はますます繁栄の道を辿る。各地の名産品や資材を運搬する船にとどまらず、行楽船や旅客船も川を行き来するように。川沿いには、船着き場、魚や青果を販売する市などが立ち並び、そこに人々が集まって賑わいを呼ぶ。春には花見船、夏には夕涼み船も川へ繰り出し、情緒ある川景色をもたらした。951年から始まったとされる天神祭の船渡御も、幕末の政変時には中止されたが、明治期には浪速の繁栄のシンボルとして隆盛を極めた。

大正~昭和初期
水運とともに発展した近代都市

  • 紡績業を中心に工業化が進んだ大正期から昭和初期。大阪は「大大阪」と呼ばれる東洋一といわれる商工業都市に。当時、大阪市は日本最大の人口を誇ったという。この時期につくられた近代モダン建築や橋梁にも華やかな意匠が採用された。中之島、船場とその周辺には、大阪市役所本庁舎をはじめ、大阪市中央公会堂、住友ビル、堂島ビルヂングなどが建てられ、官公庁や民間の銀行建築、自社ビルや大規模な複合ビルなどが集結する近代・大阪の中心地へと発展していく。そんな繁栄を背景に、川辺はモダンな都市生活を謳歌する人々の憩いの場となった。

高度経済成長期
水辺から人々が遠のいた戦後

  • 第二次世界大戦の復興期から高度経済成長期、都市交通は車や鉄道が主役となっていく。堀川は次々と埋め立てられ、川の上空には高速道路網が整備されていった。排水によって水質も悪化、水害対策でコンクリート堤防が張り巡らされたことなどから、水辺は人々の日常から遠ざかっていった。
  • 阪神高速道路がビルの谷間を縫うように川の上を走る。(大阪府公文書館蔵)

平成・令和
新たな「水の都」の時代へ

  • 大阪が「水の都」として再生するきっかけになったのが、2001年から始められた「都市再生プロジェクト」。「東洋のベニス」と呼ばれた川の風景を取り戻し、新しいムーブメントを水辺で起こす取り組みが進んだ。大川の八軒家浜が整備され、船着き場や川の駅も整う。中之島の公園や道頓堀川の遊歩道など憩いの空間が次々に生まれると、テラスカフェなど水辺の飲食店がオープン。水上バスやクルージングなども増えていった。令和の今、新たな「水都大阪」時代が、また到来している。


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