日本遺産とは?
- その地域に受け継がれる歴史や文化を物語として紡ぎ、ストーリーとして多くの人に伝える、文化庁が認定する取り組みです。伝統行事や風景、建築物など、地域に根ざした多様な魅力が、新たな発見や感動を生み出しています(2025年12月現在・全国104件のストーリーを認定)。
※東急ホテルズ&リゾーツは、文化庁と「日本遺産オフィシャルパートナーシップ」を締結しています。 
港まちに宿る近代の息づかい
- 札幌から快速列車で40分ほど。
- 海と山に囲まれた小樽のまちは、近代日本の鼓動をいまも宿している。
- かつて小樽は北日本随一の商都として栄え、その様子を小説家・小林多喜二は「北海道の心臓のような都会」と表現した。
- 明治以降、北海道の資源が日本の近代化に不可欠とされた時代、開拓の玄関口として花開いたのが、この港まちだった。
- 契機は、内陸の石炭を港へ運ぶために鉄道が敷かれたこと。港と鉄路が結ばれると、石炭と生活物資、そして金融の流れが一気に集中し、小樽は北の大地の物流と経済を支える都市へと歩みを加速させた。
- 海岸線には石造倉庫が立ち並び、通りには問屋や商店が軒を連ねる。荷が溢れ、人々が交錯し、活気が高まるにつれて、金融機関も次々に進出した。最盛期には25もの銀行が半径わずか500メートルほどの範囲に建ち並んだ。古典主義からモダニズムまで、色内(いろない)銀行街は「近代建築の博物館」と呼ばれる小樽の象徴的な景観だ。
- 未来の成功を夢見てやって来た移住者、地域経済を支えた商人や労働者、そして公共施設を私財で寄付した資本家たち――。そんな人々が積み重ねた営みこそが、このまちを押し上げた「民の力」の源だった。
小樽運河
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黄金期を物語る運河と石造倉庫群

大正12年(1923)に完成した小樽運河は、艀(はしけ)荷役の効率化を目的につくられた港湾施設。
周囲には明治20年代から30年代に建てられた石造倉庫が連なり、港まちがもっとも活気に満ちていた時代の姿がいまも残る。
小樽港北防波堤
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外洋と向き合った日本初の防波堤

明治41年(1908)に完成した小樽港北防波堤は、廣井勇の指導により建設された日本初の外洋防波堤。港を荒波から守り、小樽を北海道随一の港まちへ押し上げた近代港湾工学の象徴。
旧日本郵船株式会社小樽支店
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海運都市の繁栄を象徴する石造の事務所


明治39年(1906)に竣工した旧日本郵船小樽支店。佐立(さたち)七次郎設計で、近世ヨーロッパ復興様式を採用。日本を代表する近代建築。国指定重要文化財。
旧手宮鉄道施設
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北海道初の鉄道が走り出した場所

明治中期(1880年代)、石炭輸送のために整備された、幌内鉄道に関わる施設群。
日本の近代化を支えた北海道の石炭はここから全国に運ばれた。国指定重要文化財。
奥沢水源地水道施設
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大正期の水道技術が残る水源地

大正3年(1914)に築かれた水道施設。中島鋭治指導による設計で、石造の放水路が連なる景観は、機能性と造形美が共存する近代水道の重要遺構。
変わりゆく時代に声をあげた人々
- 戦後も小樽は復興の拠点となったが、昭和40年代に入ると潮目が変わる。石炭から石油へのエネルギー転換、道内の港湾の中心が日本海側から太平洋側へ移行したことで物流は大きく変わり、街は衰退の局面を迎える。
- 荷揚げで賑わった運河の水は濁り、壊れた船は沈んだまま。増大する車社会への対応として運河を埋め立てて道路とする計画が決定し、小樽は大きな岐路に立たされた。
- そんななか、「まちの記憶」を守ろうとする市民の動きが起こる。
- 「小樽運河保存運動」――。
- 「小樽運河を守る会」と市民によるこの運動は約10年にわたり、市中を二分する議論となった。とくに若者たちの動きは象徴的だった。倉庫を舞台にした手づくりのイベント「ポートフェスティバル・イン・オタル」は6万人の市民を集め、短期間で9万7000人の署名が積み上がった。
- まちの誇りを守るために立ち上がったその姿は、小樽が明治以来育んできた「民の力」を蘇らせた。

昭和40年代、運河の埋め立て計画に対して、市民が保存運動を展開した。「小樽運河を守る会」による活動は、歴史的景観を守り、小樽を再生させた「民の力」の象徴。 
「小樽雪あかりの路」
数千個のスノーキャンドルが雪のまちを幻想的に照らす冬のイベント。運河保存運動に通じる「民の力」の精神が現代に受け継がれた象徴となっている。
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