TRAVEL

2020.12.04
TRAVEL

New way of working
ホテルの部屋にて

作家はなぜ、ホテルを自分の書斎がわりにしてきたのでしょう。
ただ、自宅ではない場所で仕事をするという以上の意味がそこには込められています。
ホテルでの体験が作家としての決心につながったという小松成美さんが、その思い出を綴りました。
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  • NARUMI KOMATSU
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  • ホテルを訪れたとき、最も心を時めかせる瞬間。それは自室に辿り着き、ドアを開け、荷物と体を室内に滑り込ませた直後に訪れる。

  • 扉一枚を隔てた別世界にある静寂。海の底にいるような深閑な空間に迎えられた私は、耳の中に常に残る煩わしい日常のノイズから逃れ、一瞬にして心の緊張を解くことができる。

  • ほんの少し前に見たロビーで行き交う人たちの姿や、レセプションスタッフの懇篤(こんとく)なる手続きが遠い過去のように感じられる。そして、宿泊の儀式とでも名付けるべきか、清潔なベッドに身を投げるのだ。心地良いシーツに頬を滑らせ、ホテルが単に一夜を過ごす場所でないことを思い知る。大好きなホテルに泊まる度、何度この恍乎(こうこ)を経験したことだろう。

  • 歓びの時間のあと、整然とした室内にある机にパソコンとノート、資料となる本や書類を置けば完璧な書斎の完成だ。

  • 静さの中で打ち寛ぐと、逆に集中力は高まっていく。書かなければならない原稿を頭の中で反芻し、キーボードの上の指を動かす。外気や他者をシャットアウトした部屋で必要な物はコーヒーだけ。ルームサービスで運ばれたポットから注ぐ液体の香りは執筆の強力な味方になる。

  • OLだった私が執筆を生業としたのは純粋に本が好きだったから。それに加え、作品を生み出す作家への憧憬もあった。才能もない自分が著述家になれるなど、想像もしていなかったが、どんな有名な作家にも処女作があり、アマチュアからプロフェッショナルになっていく作家たちの作品史に勇気づけられた。

  • 20代半ばを過ぎ「ライターになる」と家族や友人に告げた私は、やめた方が良いという周囲の忠告にまるで耳を傾けなかった。驚くことに、私のような無鉄砲な小娘に、連載を任せるという編集長に出会い、唐突にスタートは切られた。

  • 雑誌ライターになって3年が経った頃、私はついに本を書く決意をする。デビュー前のビートルズをモデルに撮影をしたドイツ人写真家アストリット・キルヒヘアと、彼女に強い影響を受けて世界的名ロックスターへと駆け上がったビートルズ。彼らの青春記をリバプール、ロンドン、ハンブルグで取材し、書き下ろしの単行本を出版したのである。

  • 追い求めたアストリットから得られた膨大な証言を原稿にする作業は困難を極めた。一冊の本を書き上げることがこんなにも難しく、文章を紡ぐ作業がこれほど苦しいことなのだと呆然とする日々に、私はホテルでの執筆を思い立つ。

  • ラッフルズホテルのサマセット・モーム、ホテルアンボスムンドスのアーネスト・ヘミングウェイ、チェルシーホテルのアーサー・C・クラーク、山の上ホテルの三島由紀夫、そうした作家と同じようにホテルのライティングデスクに向かえばゴールが見えるかもしれない、と自分を励ました。

  • 1966年、ビートルズが来日した際に宿泊した東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル 東急)に宿泊し、彼らの輝かしい日々と別れまでを活字にしていった私は、その本(『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』)を書き上げた時から、原稿を書くことの楽しさに魅了され、それ以外の人生を送ることなど、できないと思えるようになった。今もそれは変わらない。

  • ホテルの部屋は、私が一人、歩むべき人生を決めた場所でもある。



NARUMI KOMATSU

  • 作家。1962年神奈川県生まれ。会社員を経て、’89年より執筆活動に入る。
    人物ルポルタージュやスポーツノンフィクションなどに定評があり、TVコメンテーターとしても活躍中。テレビ朝日番組審議委員も務める。
    著書に『中田英寿 誇り』『YOSHIKI/佳樹』『それってキセキ~GReeeeNの物語~』『熱狂宣言』『全身女優 私たちの森光子』『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡』『M 愛すべき人がいて』他多数。

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