PERSON

2020.04.24
PERSON

中野信子 歴史脳解剖
第五幕:熊本城と頭頂側頭接合部②

熊本の人々から、清正公(せいしょこ)と呼ばれ愛される加藤清正。虎退治のエピソードでも有名な戦国時代の豪傑の実像は、数学的才能のある知的な人物だった......。
  • TEXT
  • Takuji Ishikawa
  •  
  • PHOTO
  • Hattaro Shinano
  • share:

  • お城好きには釈迦に説法でしょうが、清正は戦国時代屈指の築城の名手として知られています。尾張名古屋城、肥前の名護屋城、江戸城など数々の城の縄張りや築城に携りましたが、白眉はやはり熊本城でしょう。後年の西南戦争では、政府軍4千人の籠城する熊本城に、1万4千人の西郷隆盛軍が総攻撃をかけましたが、一人も侵入できませんでした。「政府軍に負けたんじゃなか。清正公に負けたでごわす」という西郷の言葉はあまりにも有名です。
  • 熊本城の美は誰もが認めるところです。けれどそれは単なる審美的な美ではなく、力学的に計算された機能美でした。西郷を苦戦させた石垣は、清正流という特別な石積みの技法で積まれました。緩やかな傾斜の裾野から、垂直に立ち上がる最上部まで隙間なく積まれた大石が構成する曲線は、実際惚れ惚れとするほど見事です。兵士の登攀(とうはん)を阻むことから、武者返しと渾名(あだな)されていますが、この曲線はある種の耐震構造ではないかという指摘もあります。
  • 清正が熊本城の築城を進めてい た時期、京都でM7以上と推定される直下型地震があり、秀吉のいた伏見城が倒壊しています。この時、恐怖で足腰の立たなくなった秀吉を清正が背負って逃げたという伝説があります。地震当日、清正は大阪にいたことが裏付けられているので、史実ではないらしいのですが、後に秀吉を見舞った清正が伏見城の被害状況を検分し、得た知見を熊本城の石垣の構造に反映させたことは充分考えられます。清正には理系の才能があったに違いありません。
  • その才能は熊本城だけにとどまらず、彼の支配した領地の全域で発揮されました。治水事業を積極的に行い、河川の氾濫を防ぎ、農業生産性を高めたのです。熊本県内の随所に清正の遺構が残されていて、なかには現代でも役立っているものもあるそうです。清正が熊本の人々から、清正公さんと呼ばれ愛されている所以でしょう。
  • 清正は数を形としてとらえる能力を持っていたはずです。彼のようなロジスティックスの才能の持ち主は、数から形へのイメージの変換を直感的に行うことができます。脳の構造で説明するなら、左の頭頂葉と側頭葉の接合部。この領域で数と形の変換をします。アルバート・アインシュタインも、この頭頂側頭接合部が発達していたと言われていますが、清正もこのタイプだったと私は想像するのです。
  • ちなみに齧歯類(げっしるい)の研究では、大脳皮質に関する遺伝は母親の影響が強いことが判明しています。知性は母親から受け継ぐ要素が大きいということですね。もちろん実際の頭の良さには様々な要素が絡んでいますから、あくまでもその素質ということですが。
  • 清正の母は、秀吉の母である大政所の従姉妹。ということは二人には母方の理系の才能が伝わっていたのかもしれません。秀吉は清正に自分と同質の才能の片鱗(へんりん)を見いだして、豊臣家の将来を託すべく、大切に育てたのでしょう。その秀吉の悲願であった朝鮮攻略のための莫大な戦費負担が、清正をはじめ秀吉が手塩にかけて育てた家臣団を分断し、その亀裂が徳川家の天下へとつながったのは、歴史の皮肉と言うしかありません。
  • 京都二条城での家康と豊臣秀頼の会見を実現させ、熊本へ帰る途上で清正は急死します。50歳での突然の死でした。毒殺ではないかという説もありますが、真相は明らかにされていません。
  • あわせて読みたい:中野信子 歴史脳解剖 第五幕:熊本城と頭頂側頭接合部①

KIYOMASA KATO

  • 1561-1611年。尾張中村に、刀鍛冶の息子として生まれる。母親は大政所の従姉妹と伝わっている。少年時代に小姓として秀吉に仕え、後に主計頭に任じられる。熊本城を築き、領内の各所で治水事業を行い農業生産性の向上を目指すなど民政にも尽力。

NOBUKO NAKANO

  • 脳科学者。1975年東京都生まれ。 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。東日本国際大学特任教授。『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』(KADOKAWA)、『戦国武将の精神分析』(宝島社新書・共著)など著書多数。

関連記事