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2019.07.05
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中野信子 歴史脳解剖
第二幕:江戸大改造 松平信綱の知恵

開府から半世紀を過ぎた明暦三年、江戸を大火が襲う。死者推定五万人、江戸城までもが焼失し、市街は灰燼に帰す。この未曾有の大災害から江戸を見事に再建した、老中首座松平信綱の知恵の秘密を脳科学する。
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  • Takuji Ishikawa
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  • Hattaro Shinano
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  • 明暦三年(一六五七年)の正月十八日、江戸では未明から猛烈な北西風が吹いていました。秋から雨が降らず乾燥していて、土埃のために朝も夜のように暗かった、と当時の記録にあります。
  • 昼過ぎ、本郷の本妙寺付近から出火します。火は瞬く間に燃え広がり、駿河台の大名旗本屋敷を焼き払い、日本橋、深川、本所まで延焼、人家の疎らな田園地帯でようやく鎮火しますが、それで終わりではありませんでした。
  • 翌十九日も大風が続き、また昼過ぎに小石川から火の手が上がります。この火は江戸城から、数寄屋橋、日本橋、新橋から南の海岸にまで達します。さらに夜半、今度は麹町から出火、神田橋を経て、江戸城西丸下、愛宕下から芝浦一帯を焼き尽くします。
  • これが江戸の三大火の筆頭とされる明暦の大火です。避難民が持ち出した大量の家財道具が街路を塞ぎ、火に追われて川や運河に飛び込む人々も多く、大量の溺死者も出ました。十万八千人の死者が本所の回向院に埋葬されたという記録が残っています。実際は五万人程度だったのではないかという説が有力ですが、それにしても大惨事でした。江戸城周辺の人口密集地の被害は甚大で、焼け野原となりました。天守閣まで焼け落ちたのです。こうして開府から五十四年間かけて営々と築き上げてきた新興都市江戸は、灰燼に帰したのでした。

大災害を奇貨として、 江戸の町を改造した

  • この大災害から江戸を復興させたのが“知恵伊豆”こと松平伊豆守信綱です。この渾名は、あたかも「知恵が湧き出づる」さまを思わせ、彼の知恵者ぶりが窺われるようでもあります。大老酒井忠清も「信綱と知恵比べをしてはいけない。あれは人間と申すものではない」と評したほどです。
  • 大火に逃げ惑う大奥の女性を安全に避難させるため、表御殿の廊下の中央の畳一枚を全て裏返して誘導路にした話が『名将言行録』 にありますが、これは知恵者信綱を物語るためのエピソードの類でしょう。彼の本領は、非常時に状況の変化を冷静に予測し、最悪の事態を避けるための方策を次々に打つところにありました。
  • さて、大火の翌日のこと。彼は、いち早く関東一円に配下を派遣し、「江戸で大火があり御城は焼失したが、こういうことは時にあることだから何も心配せず、田畑の耕作を油断なく行うように」との通達を出します。さらに同日、書院番と小姓組から人員を大阪にも派遣し、道中各所で将軍が無事であることを伝えさせます。また京都、奈良、長崎、豊後など各地に飛脚を送り将軍家の安泰を知らせ、人心を鎮めました。実はこの二十年前に起きた島原の乱、六年前の由井正雪の乱、いずれも信綱が鎮圧したのですが、状況を制するにはまず情報を制することと考えていたのでしょうか。大火の後は流言飛語による政情不安を何より恐れたのでしょう。マスコミもインターネットも存在しないあの時代に、正確な情報を素早く流布させることを彼は優先したのです。
  • もちろん焼け出された被災者救援も開始しています。内藤帯刀、石川憲之など四大名に命じ、増上寺前など六カ所での粥施行は二月二日まで連日、以降は隔日で二月十二日まで行われました。施された米は毎日千俵に上りました。
  • また米価の上昇を見越して、旗本たちに米の時価の倍の金を渡しました。すると「江戸なら米が高く売れる」と、競って米が回送され、かえって江戸には米が溢れて、庶民は飢餓を免れたそうです。屋敷を焼失した武士たちには、石高に応じて再建の費用を貸与または恩賜しました。民間にも銀百万貫目を下賜しています。
  • 迅速な手当が功を奏し、二月中旬には小屋掛けして商売を営む者が現れ、三月には仮建築ながら表通りに町家が並びます。その後、幕府からの本格的な救済資金の投入により本建築が始まり、十月には町並がほぼ再建されました。
  • 大災害からの復興を、信綱一人の功績と言うつもりはもちろんありません。重要な政治的決断は幕閣の合議で下すのが慣例でした。明暦の大火について記した史書には、まだ十六歳の四代将軍家綱を補佐した保科正之、また家光の時代から共に老中を務めた阿部忠秋も大きな役割を果たしました。
  • 当時の落首などを見ても、世間の評判が良かったのはむしろ彼らの方で、信綱はしばしば悪者にされました。彼はお酒も飲まず、趣味も持たない堅物だったのです。先代の家光の側近中の側近だったにもかかわらず、その死に際して殉死もしませんでした。
  • 世評が良くなかった理由もそのあたりにあるのですが、私はむしろそこに彼の魅力を感じます。例えば、彼は老中首座の権限を発揮し、合議制を無視して独断で大名の参勤を停止し、在府の大名に帰国を促しています。「そんな重大なことをなぜ一人で決めた」と紀州の徳川頼宣が怒ると、信綱はまず「この手の問題を議論するととかく長談義になり無益です。責任はすべて自分が負う覚悟でこう計らいました」と答えます。続けてその理由を伝えると、頼宣は手を打って信綱の思慮に感嘆したそうです。簡単に言えば、江戸の人口を一時的に減らすための措置でした。現代の災害でも、まず問題になるのは食糧確保です。流通手段の乏しかった当時は、大名を地方に移動させて口減らしをするのが効果的だったというわけです。
  • 信綱は批判を恐れず合理的に行動する政治家でした。復興にあたり、江戸の町割りを大幅に変更。具体的には、江戸城周辺に集中していた大名や旗本の屋敷を大胆に移動させ、沼や海の埋め立てを行って市街を拡大し、道幅を広げ、広小路を設け、防火堤を築き、それまで江戸城を守るために橋をかけなかった隅田川に両国橋をかけました。町の復興には幕府財政の窮乏につながるほどの大金を投じたにもかかわらず、焼け落ちた天守閣は再建しませんでした。保科正之の献策とされていますが、信綱も同意していたでしょう。泰平の世に天守閣は無用の長物、再建に巨額の費用をかけるのは無益だというのは、いかにも信綱の好みそうな発想です。ただそんなことを言い出せるのは、家綱の叔父である保科正之しかいませんでした。
  • いずれにせよ、大災害を奇貨として、信綱は江戸の大規模な都市改造を行ったのです。その後も江戸は幾度かの大火に見舞われます が、これほどの被害を出すことは二度とありませんでした。六十七歳で世を去った彼の遺言には、こうしたためられていました。
  • 「幼主家綱の時由比正雪の乱、明暦大火への対応など残らず信綱一人から出たことではないが、天下こぞって毀誉褒貶を信綱一人に指すことは名誉の致すことである」
  • 貶められることを恐れず、結果を出すことのみを考え続けた彼だからこその言葉でしょう。松平信綱は、私が今いちばん話してみたい歴史上の人物でもあります。
  • ※参考文献 『信綱言行録』、『徳川実紀』、『松平信綱(人物叢書)』大野 瑞男著・日本歴史学会編

NOBUTSUNA MATSUDAIRA

  • 1596年-1662年。5歳で松平政綱の養子となり、9歳で誕生間もない徳川家光つきの小姓に任じられる。家光の側近として出世を重ね、37歳で老中に就任。島原の乱鎮圧の功により、川越藩の藩主となる。67歳で老中在職中に死去。

NOBUKO NAKANO

  • 脳科学者。1975年東京都生まれ。 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。東日本国際大学特任教授。『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』(KADOKAWA)、『戦国武将の精神分析』(宝島社新書・共著)など著書多数。

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